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エッセイ 教育

学校の教育でも伸ばす力は考えるべき

投稿日:2017-02-09 更新日:

学校に勤めていた時代にこのままでは生きる力なんて出来ないだろうと思ってしまうことがあった。

私は少しずつ考えるベースを変えていった方が良いと思う方なのですが、それについて少し意見を述べさせてもらいたい。

今回は

知識について、どのように考えていけばいいのか

教える先生はなぜあのようになってしまうのか

なぜ活きる知識を与えることができないのか

について掘り下げていこうと思う。

覚える方が正しいことなのか、使うことが正しいと考えるのか

今はインターネットが普及してきていて、皆さんの生活の中に当たり前のように浸透してきている。

そこから考えると、勉強の必要性も変化していくと言っても過言ではない。

昔は知識を覚えることが重要なことだった。

なぜなら、博識な人は何でも知っていて、有用性が高かったからである。

しかし、今はどうだろう。

頭に入れるだけでは通用しなくなってきている。データを読み解いて話をする機会などが増えてきています。また、テクノロジーが進化することにより、その場で情報を収集出来るようになってきているために頭に入れる必要性は減ってきている。

そんな中、昔の概念に囚われていて「検索に頼るな」という人がいるけど、こういった内容はもう少し吟味した方が良い。

最初から答えを求めようとして、頭を使わずに、写すだけであれば検索に頼ることは正しいことではないでしょう。

しかし、考える材料として、検索に頼って一つの情報収集をする上では、「検索に頼るな」という言葉は決して正しい情報ではない。

情報社会の中で機械を操る能力は鍛えていくべき課題だと私は考えている。

中学校では、ファイルに名前をつけて保存もできない生徒がいると聞いた。

簡単なアプリなどで世の中を便利にしたり、楽しいことをするのは良いことだと思うが、楽しいことだけを行って鍛えないのは私は反対だ。

今後の社会の生き方としても、議論をする上で、資料はインターネット上にデータとして出回っているものは多くある。

これを使って議論を進めていくことは非常に大事で、情報を引っ張る能力は今後必要とされてくることが多いに予想される。

そうすると「ググる」という言葉も浸透しているが、Googleでなにかを調べる能力を鍛えるべきだと思う。

教科書は大事だけど大事じゃないことを徹底したい。

文部科学省が検定したものでなければ、教科書は発行することができません。

詳しくはこちら。我が国の教科書制度は、検定制度と無償給与制度を柱として運用されており、関係者の努力によって、毎年質の高い教科書が安定して供給されています。

教科書が使用されるまで

教科書は、まず民間で著作・編集され(1年目)、文部科学省に置かれた専門家による審議会が教科書として適切かどうかを審査します(2年目)。
合格したものの中から、教育委員会や国立・私立学校の校長が使用する教科書を選びます(3年目)。翌年度、ようやく実際に子供たちに使用されることとなります(4年目)。

 

教科書が使用されるまでの工程がわかったところで、なんで教科書を使う必要があるのかを考えると

わが国では、国が教育の基準として「学習指導要領」を定めています。

この学習指導要領に基づいて教育が学校で正しく行われるように、教科用の図書として制作・使用されるものが「教科書」なのです。学校教育法には、小学校においては教科書を使用しなければならないと定められています。この規定は、中学校・高等学校にも準用されています。したがって、全ての児童・生徒は教科書を使って学習する必要があるのです。そのため、現在、学校の授業の場では、実際にほとんどの授業において教科書に沿って教育が行われています。そうすることで、国内どこに行っても検定を受けた教科書によって均質な教育を受けられるのです。

第一学習社や実教出版、東京書籍、数研出版など大手の教科用図書を作って頑張ってもらっているが、最後は国が審議会を通して、Goサインを出さないと使用することができないわけだ。

必要な力をつける上では大事なことなのですが、頭をフル活用しないものであれば高度な知識は使う必要はないということになる。

だからよく、この勉強は何に使うの?と言われて、しっかりと返答が出来る人は少ないはずだ。

だから基本的には読み、書き、そろばんと調べる能力さえあれば大丈夫!!だけど、建前上たくさん勉強しておけって言ってしまう敷かないんですよね。

ただ、自分で全く使わないで教科書を読むくらいなら、

TEDと言われる「世界の有名人の声を字幕付きで見られるアプリ」のスピーチ動画リストを役に立つと思う。

※後々役に立つ情報が、その当時必要ないと思っていても役に立つことは往々にしてあるので、全てがとは言いきれないが…。

採択まで四年かかるということは時代に追いつけていないことになってしまう。

変化は着々とスピードを上げているのに、4年前というのはどうなのだろう。

教員の基本的な所に疑問を抱く必要があるのではないか

本当は無意味なことを正しいことだと思い込んで、他人に押しつけるきらいがある

なぜ、そのようなことが起こるのか。

あまり先生を攻撃はしたくないのだが、環境的にこのようになってしまう人が多いという考えかたで、

先生たちも新卒で教師になるから、社会を知らない人が多い。⇒子どもに自分が教わった学校での知識だけを教える。

若い教師も自分が教わってきたことを伝えるだけだから、周回遅れの古臭い価値観を押しつけることになる。

そうすると何が起きるかというと

社会人になってから、お金の運用などを覚えていくものだが、教員はお金の話は触れづらい業界になっている。

子どもが好きでやっているのに、お金の話をするのか君は!

という考えが年配の方にいたら、こういった話はしない方が得だし、情報が回らないので、先生方は知らないで生きることになる。

また、安定して給料が生活出来る範囲で入ってきてしまうのでそれ以上の疑問を持たない状況が出来上がる。

すると、社会人になってから行いそうな投資の仕方とか、生きる上での役立つことを教える知識が付いていかないのである。

こういった環境にいるせいで、周回遅れの考えを道徳教育などで教えていくスタイルが出来上がってしまう。

先生は子どもにとって正しい(正しいと思わせるようにしているため)情報をくれる人という考え方を浸透させるために

先生が「お金は汚い」とか「貯金しろ」っていう変な思想を子供たちに植え付けていけるのが問題だ。

 

学校の変な体質をもう少し考えてみる。

そもそもの原因は、個々の教員の問題だけではなく、教育委員会からのシステムの問題もある。

学習指導要領から外れることが許されないので、過去の延長線上をやるしかないわけです。

そう考えると今の学校は「子供たちのことを一番に考えていない」というのが現実なんです。

 

じゃあ学校とはなんなの? と思われる方もいると思いますが

まずは教職員が幸せでいられることが優先順のトップにあって、その次に子供の教育って感じです。

その一例として学校でのいじめ問題の処理を例にとって考えてみましょう

学校でいじめが発覚すると、だいたいは「学校が把握していなかったし、責任はない」ということになります。

もし、学校にとって生徒が優先順位の一位なら、学校側がいじめを把握出来ていなかった時点で、校長や担当教員の責任問題になります。

しかし、実際は学校は責任を取りたくないので、「なるべく知らない方が得」という結論で動いている。

そういう意味では、今の学校は生徒を育てるのではなく、先生を養うための場所というのは否定できない。

 

まとめ

教育が人生において大きな要素になることは間違いないのだが、いろいろと条件を考え合わせた上でこうした方が良いという考えがもっと教育業界でも広がっていくべき必要がある。私もまだまだ知らない知識がたくさんあると考えているが、教員の先生には修養の時間をしっかり確保し、多くの業種の人に関わってほしい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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