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エッセイ 教育

校種別の教員で見方と鍛える筋肉が違うことに改めて衝撃を受けた。

投稿日:2017-07-04 更新日:

授業参観というものを見てきた感想を書きたいと思う。

いい教員の定義がここまで違うのか

誰が評価するかで大人は成長路線が変わっていく

これはこどもの発達段階に合わせて、対応する筋肉が違うことで起こる

15歳までは子どもというのは自分中心で物事を考えていく。

そこまで頭が付いていかないからである。

中学生のぎりぎり三年生で正しいことの比較ができるようになってくる。

中学生の入りたては、正しいことが何かわかっていない。

悪気がなく、悪いことをする人もいる。

もちろん悪気がなく、礼儀正しい子もいる。

この正しいことが何かわかっていない子ども達にとっては先生は「頼れて知識がある人」のように映ってしまう

この環境こそが先生をそれ以上の人間的な奥深さを生まない原因だと私は思っている。

昔いわれていた、先生は大学出てから仕事に就くから特殊な世界だよね と揶揄される理由がここにある。

それがはっきりわかった。

子どもの喜ぶことが変わる

授業参観で見た私の先生の姿は

手を上げてー はーい! と子ども達に、真似してといわんばかりに表現する。

どうかなー?

みんなでグループになってー。

というのをNHKのおねえさんのように30歳後半の先生が行っている。

 

私からすれば授業を見ていると、「プロ根性のある人だな」と映っていたのだが、実際にその教諭と喋ってみると私は肩すかしを食らった。

女性教諭と会話をしていると、ちょくちょく「そこ今大事じゃないんだけど…」と考える部分が何点か出てくる

話をしていて「そこ笑うとこじゃないし…」と思うこともあった。

大人との交流ができないのかこの人は… と大人との対応があまりにも下手すぎると思ってしまう。

小学校の教員と喋って気付く

そこで私が思ったのは

相対している相手が違えば、鍛える部分などまるで違っているし、目指すべき目標も全く違うことに驚きを感じた。

なにせ高校生を相手にしていた私にとって、目標は進学か就職かをさせる社会での必要なことを教えていく場であるからだ。

その分教員も、生徒を就職させるために一般の感覚をわりかし身に付けている

 

しかし、小学校教育での目標は生徒を中学校に勝手にエスカレートしていくもののため、学習指導要領に沿っていくしか拠り所がないわけである。

そして、どの教員でも言えることだが、その後の生徒のことを全く考えていかない。高校に進学させるまでがお仕事という形式的な部分が見え隠れする。

もちろん卒業生が顔を出すときもいるが、それはごく少数だろう。

一般的な感覚であれば、わざわざ学び舎に行きたいなんて、自分からは大抵のことは思わない。

それこそ、卒業したんだからもういいかといったことになりがちである。

簡単にいうと、追跡調査は行われないまま進んでいくのが教員業界の一種の特徴だ。

研究であれば卒業後の動向として数年間追ってからデータを取ったりするのだが、学校は三年間でどのように変化したかしか追わない

学校でも調査として、もし追っているとしたら文部科学省の誘導尋問のようなアンケートで調査しているくらいだろう。

しかし、文部科学省も全部の現場を知っているわけではない。

あくまで、生徒数が多いものの処理は、数が多くなるにつれデータとして処理しかしないし、答える側の回答として言ってはいけないことは、言わないように仕向けているアンケート内容になっていたりするので、現状は正しいことを捉えているかは怪しいものである。

中学生って話聞く必要あるのか

筋肉の話に戻るのだが発達段階で何が違うのかというと

中学生までは

自分が起こった出来事を話すことに集中する。

そして、それははっきり言って聞いても聞かなくても一緒

なぜなら、聞いていなくても喋るからである。

大人からその子の話している内容について、それはどうなの?といった返しは必要ないのである。

なぜなら、そんな意見を聞く耳など持っていない。

つまり、聞いている振りができている人がこの現場には必要なのである。

簡単に言えば、理解する必要もなく、そうなんだねーっと相づちを打てるかどうかで勝敗はきまる。

高校生の相手をするには、理解力が必須

高校生になってくると話は違ってくる。

成長するにしたがって 言葉のラリーができるようになるからだ。

価値基準というものが、「この先生ならなんていうんだろう」といった、人間の思考を試してくる力が付いてくる。

そのため、「この先生つまらないやつだな、考えも浅はかだし」となった時点でその先生の価値は薄れるのである。

先生がいかに考えているかを敏感にキャッチするからこそ、芯がある人でないと高校の先生は生徒から嫌われる。

言葉のラリーを理解しながら、適切に答えられる人間が高校教員には必要になってくるため、普段何も考えていないと一気に評価されなくなってしまう。

校種で先生の振る舞い方が違う

こういった所に大きな差がある。

小学校の先生は表現上手で、聞いている振りが上手で授業も、意味のわからないわかりやすいことをやっていればいいというスキルが身に付いていく。多くの人たちが小学校の記憶は少ないのではないだろうか。

もちろん、小学校の先生はその表現力を磨くために日々頑張っていることはもちろん理解している

 

高校の先生は、表現力はあまり必要ない。

中身を必要としている生徒が多いため、わざわざ小さい子どもを相手にしているような事をされたら不愉快だろう。

表現は授業の理解をするための工夫だったり、今後の人生に役に立つことを話してくれる人が必要とされるので、今までの経験をいかに語り、深く考え、社会の在り方を理解していく先生が強くなっていく。

ここに高校の先生は一般的な人が多いというのは常に生徒に鍛え上げられているとも言える。

生徒は大人と違い、先生のことも失礼なことをぶつける部分が残っている。

大人であれば「人それぞれだ」ということを知っているから気になっても言わないのだが、高校生はそんな生やさしいものじゃない。

「先生のここが嫌いだ」と呼吸をするようにいってくる。

そういったことを通し、大人から思われるようなこともぐさっと言われるので、教員が治していくべき所はすぐに発見されるのである。

事実、私も勤務していたときは、何度も言われ、少しずつ改善していくといろんな人が好意をもって接してくれるようになった。

自分の悪いところを治すときには、あの環境は大切だったと今でも感じている。

校種別の問題点

義務教育は小学校、中学校と繋がっているが、高校は義務教育ではないのでつながっていない。

そこでの校種(小学校・中学校・高校)でわだかまりがあるのが現状である。

そして、私は中学校も高校も勤務することができたが、感じたのはその下の校種の先生への批判は結構ある(高校なら中学・中学なら小学)ということ。

今でこそ私は教育の根源は「家庭の教育にこそある。」という考えになったが、当時は一つ前の校種のことを知らずにその一つ前の中学校や小学校のせいにしていいのか判断に迷っていた時期がある。

しかし、経験を通しわかったのは

直せないものは何をやっても直せない。そもそも根性がない人は中学校からも根性ないし、小学校からもないんだろうと思う。

中学校の生徒に関わっているとに聞くのは、「大抵親はこういうから…」ということを口々にする。

 

私は自分が体験したことを一番に重視するために、校種をまたいでの経験をさせてもらったが、ここまでにたどり着くのに多くの時間をかけたと思っている。

 

まとめ

教員でのわだかまりを解消することは多分ないのだと思う。

校種別に仕事を経験しようとする教員は本当に一握りだろう。

私は北海道で採用され、勤務していたからこそ今の内情を理解している方だと思っている。

しかし、教員採用試験の罠は各自治体の情報を学ぶ機会を閉ざしているのが実際である。

もちろん、必要性を考え、教員が校種間をまたいで行う自治体もあることはあることは伝えておきたい。

文部科学省の学習指導要領に沿って、各県で色を出しているが、実際の教員がどこまで理解して動いているかははっきり言って怪しいと思うことが私は多くなっている。

今回は校種間について、教員の問題点を私は挙げたが、今後も教育業界について、私見を述べていきたいと思う。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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